横浜の社会教育を辿って4

ここからのお話は1987年頃に区の社会教育指導員(1972年頃から全国に市町村の社会教育指導者層の充実を図り、社会教育の振興のため設置された非常勤職員、当時は退職校長がなることが多かったが横浜では地域やPTA活動をしてきたような女性が担い始めていた)をしておられた方から伺ったお話です。横浜には公民館がない中で、どのように「学習」が展開されてきたのかという視点で、社会教育から生涯学習への流れを追っていきたいと思います。

 まず、横浜では、前回出てきた、講義だけの承り学習ではなく、討議などが取り入れられた婦人学級が、1957年(昭和32年)から始まっていますが、これは文部省委託事業でこの婦人学級での学びというのが社会教育の学習史上、特に女性の学習においてとても大きく、画期的なものと言えるものでした。なぜかというとこれは「問題解決学習」という手法をとりました。それまでの学習では女性は教え込む対象で、主に婦人団体を対象に行われていました。それが文部省の婦人学級が出現したことによって「自ら考え学ぶ」婦人像へと変わってきました。要するに暮らしの身近な課題の学習を「話し合い学習」などを通して行うことで、小集団での女性の主体形成がはかれるような学びが行われてきました。

国では文部省が婦人学級の委嘱を始めたのが昭和31年で、昭和35年には婦人教育の予算が14倍になり、委嘱婦人学級も増設され日本全国に急激な裾野の広がりを見せています。1961年(昭和36年)、全国で3万学級が委嘱されたそうです。あまりに急激な延びを見せたので文部省では婦人教育課を設置しなければならなくなりました。同時に、昭和35年頃というと高度成長期に入り地域のむすびつきが弱くなり、地域コミュニティの崩壊がすすんでいく時期でもありました。今まで委嘱された婦人団体(地域に密着して婦人会とかを組織されているので)が衰退し、余計に婦人学級の広がりを促進したようです。